映画「トラック野郎」のヒットと、歴史に残る監督の実録
映画「トラック野郎」の公開と、鈴木則文監督の新たなる挑戦
これまで数回にわたり、映画「トラック野郎」シリーズの話を続けている私ですが、今回はその映画「トラック野郎」の舞台裏についても、この出演者達だけでなく、監督の存在にも目を向けていきたいものです。
これにより一層、映画「トラック野郎」に対する愛着心というものを、訪問者さんたちと共に見出していけたらという風に思います。
まずこの映画「トラック野郎」は、故・鈴木則文氏が監督を手掛けた作品であって、この鈴木則文監督が映画「トラック野郎」の監督に着手したきっかけ、同時に映画「トラック野郎」の誕生物語を探ってみる。
これにより「トラック野郎」シリーズに対する、より一層の文化的価値の高さを発見していきたいものです。
そもそも鈴木則文氏が監督としてデビューしたのは、1965年映画「大阪ど根性物語 どえらい奴」という作品で、元々監督としては、悲劇よりもむしろ喜劇に向いていると、当時の岡田茂東映社長が判断していたと言われております。
勿論、鈴木則文氏が監督を務めた作品たちとしては、喜劇だけでなく、当時の東映にとっての定番ジャンルであった任侠映画も何作か手掛けております。
そして鈴木則文監督にとって、新境地への転機となったのは、1975年映画「トラック野郎」が公開された一年だったのです。
実はこの「トラック野郎」だけでなく、鈴木則文氏としては、同年公開された千葉真一氏主演の、「少林寺拳法」にもよって、格闘・アクション映画の監督も手掛けていくようになったのです。
かくして鈴木則文氏監督による映画「トラック野郎」は、1975年から1979年に至るまで、全10シリーズが世に送り出される型となりました。
まさにこの映画「トラック野郎」によってこそ、鈴木則文監督もまた他の出演者たちと共に、次から次へと新たなる挑戦に取り組み、道を切り開いて行った、躍進作であったと言えます。
映画「トラック野郎」のルーツと、鈴木則文監督とのご縁
この映画「トラック野郎」自体の誕生物語については、あれこれ世間でささやかれているようではあります。
実はもともと原案を持ち出したのが、主人公の桃次郎の相棒であるやもめのジョナサン役を務めた愛川欽也氏であったと言われております。
もともとその愛川欽也氏が吹き替えをしていたテレビドラマ「ルート66」という、若者二人がスポーツカーでアメリカ大陸を旅する物語をヒントに、これをいわゆる「デコトラ版」にすることを愛川氏自身がひらめき、これこそがまさに映画「トラック野郎」の原案となったのです。
一方で当時の当時の映画界としては、やくざ映画の人気が下火になりつつあったため、それに取って代わるべく新たな娯楽作品の模索がされていた時期でもありました。
しかし、一度はその一見あまりにも当時の東映の路線から外れていたかのように映ったため、本社会議で却下されたようです。
しかし、当時やくざ映画を中心に活躍していた菅原文太兄いと愛川欽也氏が番組共演で知り合ったという事もあって、のちに共演者となる二名で岡田茂東映社長に話を持ち込んだ結果、案が通ったということです。
併せて、菅原文太兄いが無名の時代より鈴木則文監督とは友人であったというご縁からも、こうして菅原文太兄い・愛川欽也氏・そして鈴木則文監督らによる、映画「トラック野郎」の劇的な物語の第一歩が踏み出されたのです。
鈴木則文監督としては、後々当時の岡田茂東映社長のことを、「我が映画人生の大恩人で、ヒットすると自分の企画案の様に絶賛していた」と述べております。
こうして鈴木則文監督が奇才のヒットメーカーとして、手腕を振っていく第一歩である映画「トラック野郎・御意見無用」が、1975年8月に公開されたのです。
企画からわずか2ケ月、そして低予算と、不利な条件で製作されたのですが、実績としては、配給収入にして8億円を達成し、同時期公開の映画「新幹線大爆破」の倍以上の結果でした。
この映画「トラック野郎・御意見無用」のヒットの要因としては、当時の東映がそれまで公開してきた、やくざ映画に代表されるようなグロテスクな内容から娯楽的な性質も前面に出されるようになったことが考えられます。
観客層としても、女性層を始めとして幅が広がっていったのではないか、と考えられます。
実はこのトラック野郎シリーズ第一弾となった「御意見無用」製作当初としては、映画「トラック野郎」そのもののシリーズ化の計画はなかったみたいです。
それが、この「御意見無用」がヒットしたからには、東映側としても、次々と映画「トラック野郎」の続編シリーズを計画せずにはいられなかったのでしょう。
映画「トラック野郎」より学んだ、鈴木則文監督の常に試し続ける姿勢
東映側だけでなく、映画「トラック野郎」に挑んだ出演者一同、そして鈴木則文監督らの取り組みからは、現状に甘んじて胡坐をかくことなく、一つ目標が達成したらまたその次なる挑戦へ、という風に、常に試し続けた者こそが、高い支持と信頼を得られるのだという事を、お互い忘れずに押さえておきたいものです。
映画「トラック野郎」全10シリーズにおける、作品の流れそのものだけでなく、桃次郎とジョナサンが出くわし続けてきた、時にはいままで味わったことのないような、手に汗を握るような局面を乗り越えて来ました。
映画「トラック野郎」が常に「決断」と「挑戦」の実録であったことを、いまだに教えられ続けている、といった感覚でおります。
鈴木則文氏の立場としても、実は監督のみならず、映画「トラック野郎」シリーズにおいて、第一作を含む計6作を連名で脚本も担当したとクレジットされております。
勿論鈴木則文監督自身が、常に一つ一つ映画「トラック野郎」において進化し続けてきたことは、言うまでもありません。
したがって、一番星号にジョナサン号を始めとした、本映画シリーズに出演し続けてきたトラック野郎たちの飾りとしても、それぞれの作品において、進化を成し遂げてきた事も見逃せません。
もともと映画・トラック野郎シリーズ第一弾「御意見無用」の執筆に当たっては、鈴木則文監督が脚本家と共に長距離トラックに乗り込んでの、トラック野郎の生活取材に密着したとも言われております。
映画「トラック野郎」によって、「デコトラ」なる存在を広めるきっかけとなった、その裏舞台としても、鈴木則文監督が脚本家たちと共に、常に汗を流し続けてきた場面があったのです。
結果的には、映画「トラック野郎」は、1975年から1979年に至るまで、それぞれ盆と正月における興行の中心的な存在であり続け、常に新境地への挑戦であり続けたからこそ、ヒットの継続が可能であったわけで、客層の枠自体も広がっていったと言っても、的外れではありません。
最も、映画・トラック野郎シリーズがあいにく打ち切りになってしまったその裏側としても、業績不振だとか、トラックの違法改造などをめぐっての警察側との対立など、諸説がささやかれているようです。
しかし少なくとも、映画「トラック野郎」自体が数十年に渡り、世代を超えて愛され続けてきたという事実は、あくまで素直に称えるべきであります。
実は鈴木則文監督自身としては、第11作目のロケ地についても模索していたようで、この話題からしても、ビジネスというものは常に試してなんぼの世界である、というごまかしの一切効かない姿勢が読み取れます。
したがって、映画「トラック野郎」シリーズの製作における、鈴木則文監督を始めとした関係者一同による取り組みからは、いかに時代と環境が大きく変わっても、それに振り回されて己を見失うことなく常にブレない軸を持ってことに臨め、と教えられてやまないのです。
よく現実を見渡してみると、例えばブログ運営なんかにしてもその他のビジネスにしても、何かがきっかけとなって諦めてしまう人たちも少なくはないようです。
ビジネスに限らず、パワハラにより身を崩してしまったりと、何かの拍子に自分自身が知らず知らずのうちに気が付いたら何かに縛られて窮地に陥ってしまい、自分自身を見失っている人達がいることも、見逃せない事実です。
そういう視点からしても、この映画「トラック野郎」シリーズを残してきてくれた、鈴木則文監督を始めとした先人たちの軌跡を辿りつつ、日頃の自らの生活に当てはめてお手本にしてみる、という試みをすることによって、価値の高い生活の営みを実現していきたいものであります。
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